地図 その16
肉体が教える痛みを
心が受け止めて
それを理解する
肉体が教える痛みを
ただの痛みと感じ
通り過ぎてしまう
魂によって違うけれど
生まれる前に
作った地図をもしも
手に持っているならば
すごく生きやすいだろう
でもそこでは意味がない
心を知る為に
この世に生を受けた
喜怒哀楽
どれもこの世の常
たまたま痛みを知ることが
多かっただけなのだけれど
それはとても大きな「心の証」
この世の旅しか
次の世界へ持っていけないから
いつの日か
また「魂の地図」に
新しいものが加わるのだろう^^
地図 その14
なんだか2年近く治療治療で
なかなか思うようにも行かない日々でした
ですがこれは貴重な日々で
改めて人様より病があることと
心の限界も
身体の限界も比例している面があると
いうことですがもう1つ知ったのは
心の限界は無限を知ることで
おそれから解放されること。
受け入れると言うことを
ありとあらゆる観点で知れば
生きていることが
もの凄い奇跡の繰り返しと言うこと
辛いとは言わなかった
苦しいとも言わなかった
逃げたいとも言わなかった
でも憤った
でも悲しみに暮れた
でも怒りがこみ上げ
それらをすべて通り過ぎたら
昔からこんな感じの人生でも
私は毎回生きている
心臓が子宮が目が・・・あちこちで
悲鳴を上げたけれど
身体が受け入れてくれた
逃げられない自分の体を
否定していたのに気づいた
この2年
何でもやってみたよ^^
その中で身に付いたのは
「糖質制限食」これは
すべての調和に結果が出ました^^
まずは何かしら
手に取ってみて2年間の
確実な結果が1つ。
食事を用いた方法でした。
まずは1段階^^
ただただ感謝です(^^♪
地図 その12
私は自分の心の中にいる
導師の導きの声を聞きます。
考えが尽きると思うのは
自分が諦めた時に訪れます。
魂は
突き止めることをやめないと
私は考えています。
魂は
求めることを追求することを
永遠に学ぶのだと思います。
魂は
どの時代に宿っても
どの国に生かされても
与えられた天命を
偽ることなく生きるのだと思います。
魂は 心の地図を片手に
人間の得る五感を
最大に学ぶために
生命を維持するのだと思います。
導師は
夢の中で訪ねてくださいます。
「今日のあなたは有意義でしたか?」
「今日のあなたは生命を大事にしましたか?」
導師は 時に「思い」をくださいます。
「豊かになりさない」
「許し受け入れなさい」
「笑顔で慈しみゆるり過ごしなさい」
人間の目に映る眼下には
限界があるのかもしれない。
魂の目に映る景色には 限
界は存在しない。
限りある命に対し
心に限りは存在しません。
導師は意思を教えてくれます。
間違いはない けれど
過ちを感じたのならば修正すれば良い。
生きていく上で
学ばずは死すも同じ。
生命の恵みは 流れの中にありて
流れを生むのは自分である。
心の熟考は 与えてはもらえない。
心の熟考は
気づき、溢れ、思い、流れる。 導
師は最後にいつも言います。
「あるがままにありなさい」
「考え尽くしても終わらぬのがこの世である」
だからこそ
心の熟考を重ねたいと思います。
(宗教などは一切関係ありません(^^ゞ)
地図 その11
老いに関して
今回は自分なりに
老いの学びを
考えていました。
若い頃に分からないこと
若い頃には気づかないこと
若い頃には理解もできないこと
若い頃には抑えられない感情
老いると言う事は
単純に若さを失う事ではないと
私は考えています。
また思っています。
老いると言う事は
年齢を重ねるという事でもあり
学ぶということでもあります。
その方がどこに重点を置いて
生きているかと言うのが
何よりも大事であると思いますが
肉体の老いは時に
さみしさを感じたりするかもしれません。
ですがその時に
年齢に沿った知恵や知識を持つことで
老いは活かすべき智慧と
変化していく気がします
肉体の経験すること
肉体を通じて経験すること
心が経験すること
心が体験すること 私
は老いると言う事を
重ねると感じたり積むと
言うふうに
考える事がとても多いです。
自分自身が歳を重ねると言う事は
目上の人と接する機会が
とても減るものです。
自分が若い時には
目上の方ばかりなのに
それを知る今は
目上の方を敬ったり
目上の方に意見を
聞かせて頂いたり
声をかけて頂ける事を
心からありがたい事と思えます。
最近なのですが
親という存在を改めて
尊敬し
敬意を持って接する事が出来ます。
自らの老いからでしょうか
いいえ、決して老いを
悲観することなく
自分が十分な時間を
重ねたからこそ
感じられる思いであるのだと思います。
しわを嫌う女性は多いものですが
私は年齢相応のシワは
とても素敵なものであると
感じています。
笑顔に刻まれるシワは
嘘をつきません^^
笑顔1つでも
苦手な方もいれば
よく笑う方もいます^^
どこにいても
何をしていても
人の顔と歴史は存在します。
そこに自分が触れる事が
出来る事はとても光栄です^^
老いと言うと
違和感を感じるかも知れませんが
老いると言う事は
素敵な時間の積み重ねであり
愛すべき時間であるのだと
心から感じています^^
地図 その10
孔子の書の中に
とてもわかりやすい
言葉を見つけました
一 頭を使って知恵を出せ
一 知恵の出ないものは汗を流せ
一 知恵も汗も出ないものは静かに去れ
この言葉自体が実話であり
この言葉自体がすでに教訓です。
ここではわかる人と
わからない人が
明確にハッキリ分かれる事でしょう。
選択肢は3つです。
考え方は自分次第。
ですが私はとても理解出来ます。
人の知恵は自分で絞らなければ
意味がありません。
わかったふりとわかるとは
違うと言いますがまさにそれです。
知ったかぶりは必ず後でバレます。
学ぼうとする時
皆さんはどうしていますか?
知恵を出せと言うのは
優しい感じですが
その出せとは
他人の引き出しでは
意味がありません。
他人が言う事と同じ事を
繰り返していても
それが自分の学びとなり
真摯にそれを受け入れ自分のものに
しなければそれはただの
他人の知恵です。
これは出したとは言えません。
そして2つめ
知恵の出ないものは汗を流せ。
本当にその通りです。
四苦八苦するかも知れません。
ですがまずは身体を動かしてみるのが
いいのかも知れませんね
深くを話すと意味が通じない可能性が
ありますのでこれはこの辺で^^
そして最後。
知恵も汗も出せないのならば静かに去れ。
そこにいても
あなたの学びは無いかも知れない。
孔子がどのような意味で
これを 語ったかはわかりませんが
私は どちらも出せないと
言うのならばその時間は
あなたにとって
もったいないから。
そこではなく他へ行かれた方が
と解釈します。
これは意志の教訓
なのではないかと思います。
人は意志を強く持てなければ
知恵を持ってしても身体を
持ってしても
何もなす事は出来ません。
どちらもNOならば静かに去れ・・・
と言う事なのかと。
冷たく感じるでしょうか?
私はとても親切な教訓であると思います。
意志を持たぬのは自らの意思です。
それは誰もとがめません。
ですが成さぬのならば
静かに去るのは
最善であると思います。
論じるには
心あるかこその真実味です。
論は時として
保護、擁護、保身となります。
すべて区別のならぬ使い方を
してはならないと感じます。
論はわがまま、自我、我欲
小我にも 使えるものなのです。